そこは何処かの高校の校庭だった。秋の終わり、少し曇った鈍い空気の漂う夕暮れだった。
僕は校庭の端っこの銀杏が立ち並ぶ所に一人座り、味の無いガムを食べながらただボーっとしていた。地面が見えない程の落ち葉が僕の周りを円状に囲み、少し風が吹くとカサカサと音を立てる。
校庭の入り口近くにはバレエダンスを踊る制服の女の子の集団がいて、そこから少し僕に近い所、落ち葉の円の外側にはブランコに乗った同じく制服の女の子が居た。バレエダンスの女の子達は全部で十人程で、それぞれ違う踊りを踊っているのだが、素人目に見ても上手いと分かるくらいしなやかな動きでスカートから覗く白い足を器用に運ばせていた。僕は音楽も無いのに踊れるのはすごいな、みんな可愛いな、と思った。ブランコの女の子は一人きりで、きっと今までもずっと一人きりだったのだろうと思わせるような妙に哀惜漂う雰囲気を纏いながらゆっくり揺れるブランコにその身を任せていた。僕は、寂しいな、と思った。
どれくらい時間が経っただろうか?
もう随分長いこと、落ち葉の擦れ合う音をBGMに少女達のダンスを見ている気がする。ブランコの女の子も、相変わらず慣性に逆らわないゆるやかなリズムで重力と遊んでいた。
ずっとこんな光景が続くのだろうか、と考えていると、遠くからスピードを出している車特有の排気音が聴こえた。音はこちらにどんどん近づいてきて、次第に耳障りな領域に入り、そしてその領域を一瞬で飛び越えると不快な領域に突入した。とうとう風の音も落ち葉の擦れ合う音も掻き消してしまう大音量が校庭に流れてきた。
たまらず耳を塞いで周りの様子を見ると、バレエダンスの少女達もブランコの女の子も、気付く素振りを見せずにただ踊り、ただブランコに身を任せていた。耳を塞がなければいられないくらいの轟音なのになぜなのか、僕は疑問に思った。
そこでようやく僕はここにいる少女達全員耳が聴こえないということに気付いた。
気付いた瞬間、入り口の向こうにこちらへ走ってくる中型のバスが見えた。音の主だった。何故か運転席まで良く見えて、運転している男の顔もはっきり見えた。今にも消えてしまいそうなくらい弱々しくて、何か大切なものを諦めている顔だった。
そうか、あの人は自殺志願者なんだな、と思った。なんでそう分かるのか考えていたら、また大きなことに気付いた。僕も自殺志願者だったのだ。
バスは猛スピードを保ったまま入り口の柵を突き破り、校庭に入ってきた。しかし柵を突き破った衝撃でバランスを崩したのか、蛇行しはじめた。僕はその音量と自分がここにいる理由にあてられてしまい、一歩も動けなかった。コントロールを失ったバスはまるで荒馬のように予測の出来ない動きと轟音をまきちらしながら、バレエダンスの女の子たちのすぐ近くを走り抜ける。それでも女の子たちはバスに目もくれずただ踊り続けていた。
なんで怖くないんだろう。なんでみんなあんな楽しそうに踊るんだろう。
自殺に向かうバスが僕を巻き込もうと近づいてきた。バスの前面が落ち葉の円に触れようとする、そのタイミングで、僕は何故か安心してしまった。ガムを吐き捨てた。死ぬって呆気無いんだな、と気付いた。もう大丈夫だ、と言い様のない自信を持って僕はバスに向かって両手を広げた。
丁度その時ブランコの女の子の顔が視界の隅に見えた。女の子は僕のそんな状況に構うことなくブランコと揺れていたが、でもほんの一瞬、本当に一瞬、少しだけ笑った。そして大きな風が吹いた。
沢山のもの、大量の人、或いは僕らの透き通る声、発した恐ろしく綺麗な言葉、胸の中に残る妙に懐かしい気持ち、それらを全て吹き飛ばす風が吹いた。
バスは僕のすぐ横の一際大きな銀杏の樹に突っ込んだ。とんでもない爆音が一瞬流れて、あとは風船の空気が抜けていくような音が続いた。確認はしなかったけれど、きっと男は望み通り死ねただろうから、とても優しい気持ちになった。
すると僕の周りの大量の落ち葉たちが風も吹いていないのにも関わらず空へ舞い始めた。円にある全ての落ち葉が、端から円を描きながら飛んでいく。曇りから一転、吐き気がするくらい晴れ渡った空に、死んだ落ち葉が登る。
ブランコの女の子を見ると、穏やかな笑顔でしっかりとブランコを漕ぎ始めていた。そして一言、僕に向かってはっきりと言った。
「たましいがのぼっていくのよ」
ブランコが勢いを増す。葉は空に昇る。ブランコはさらに勢いを増す。葉はもっと空に昇る。たましいはもっともっと上に昇る。音のないバレエダンスは永遠に続く。少女達の白くて可愛い足はずっとステップを踏む。ブランコは重力に逆らう。
ああ、なんて綺麗なのだろうか。空に螺旋階段を描く落ち葉たちは、原色の、汚れを知らぬ青に自らの身をかけて抗う。ブランコの女の子は、それを最後まで見届けるため生まれたに違いない。男の命が昇るのを、ずっと待っていたに違いない。そしていま、いま、解放された。バレエダンスの少女達は、その肢体を秋の鈍い陽に晒しながら踊り続けるに違いない。その足を風に任せて、音のない世界で頭に流れるメロディを追い続けるのだ。
とてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとても可愛い。思わず拍手喝采。僕もブランコに乗りたい。もう死にたいなんて思わない。でも落ち葉になりたいとは思う。だって落ち葉ってすごく綺麗だしエロティックだし切ない。でも女の子って不思議だし可愛らしいしもっともっと切ない。耳が聴こえないのって可哀想だし切ないけど、とってもうらやましい。だからどんな愛の言葉よりどんな雄大な景色よりどんな有名な絵よりどんな愉快な音楽よりどんな高級な娼婦より、いまは全部、全部が全部、美しい。