[2010.03.08] ルームメイト

 暗い空間に、わずかに人の気配がした。僕はその温もりに向かって話かける。
「ねえどうして僕はこんな所にいるんだろう」
「悲しい?」
 思いの外しっかりした女性の声だった。
「とにかく」かすかな吐息を感じようと体を寄せた。「なんだか良く分からない場所にいるし、どうしたらいいかも分からないし……」
「悲しいのね?」
「……ああ、とっても悲しい」
 女性の手が僕の肩に触れた、気がした。感覚だけが頼りだった。或いはもっとこわいもの、鋭いもの、ナイフかもしれないが、僕にはその暖かさを信じるほかなかった。
「ここはどこ?」
「わたしにも分からない、すごく広いかも、でも、すごく狭いかも」肩に乗せられた手にかすかに力が入る。「ここにわたしがいることと、君がいることは確か」
 それだけで充分だ、と言える程僕は僕にもそこにいる女性に対しても自信がない。ただ、得体の知れない安心感だけが僕を四方から包んだような気がした。そういえば昔、歴史の授業で聞いた防空壕というものはこんな感じだったんじゃないだろうか。なら、いま空には内蔵みたいな煙が撒き散らされ、吹き出した火はそれを真っ赤に染めているのかもしれない。僕は逃げ惑う沢山の子供達を思った。が、女性の声がそれに被さった。
「わたしはね、体を売って暮らしてたの」
「どうして?貧しかったから?」
「一番簡単だったから、それが一番手っ取り早かったから」
 随分と重い話題も暗闇は曖昧にしてしまう。まるで昨日の夕飯を教えるみたいに、女性は淫売の過去を僕に打ち明けた。何故いまなのか、どうして打ち明けたのか、そんな当然の疑問すら暗闇は打ち消し、道端に棄てられた煙草のようにその火種を萎ませた。そうして僕にも昨日の夕飯を告白させようとする。
「ねえ悪いことだと思う?体を売るのは悪いこと?」
 女性が身を乗り出した、ような気がした。距離が縮まった、そんな空気を全身に感じた。ここは思っているより随分狭いようだが、不思議と重苦しい印象は受けない。妙な開放感は僕を饒舌にしてしまう。
「分からないけど、もし僕の愛する人が体を売ったなら、僕はすごく悲しい。涙が溢れるほど悔しい」
「じゃあわたしが体を売ることは悲しい?」
「ねえ、僕は君を知らない。まして、いまはここが何処かも分からない。確実なことは何も無い。本当に何も無い。だからはっきりとした答えはあげられない。ただ一つだけ、それを僕に聞かなければいられない君の気持ちは悲しいと、いま思った」
「なら」吐息をはっきりと感じた。「なら、わたしを助けて」
「君がどうしたら助かるのか、見当がつかない」
 そう言い終わると同時に女性の体が僕に密着した。か細い腕が背中に絡み付き、頬と頬が触れ合う。
「沢山の時間をここで一緒に過ごして。そうね……わたしが許されるまで」
「どうして許されなければいけないんだ?」
「私は折り合いをつけなきゃいけないの。それはすべてのことにね。自分の体との距離、選ばれなかった人の受け皿になる人、無数の札束に溺れていく無為な時間……」
 次々に呟く声は彼方へ飛んでいったが、僕には防空壕で抱き合うことがとてもロマンチックなことに感じた。惜別の具現化?そんな陳腐なモノじゃない。これは契約だ。絶対に守られるべき契約だ。だってそこには愛情がない。
「分かった。一緒に待とう。許され、ここに光が射し、空の煙が晴れるまで、僕は一緒に待つよ」
 女性の髪はだいぶ傷んでいたが、それすら、なるべくしてなった気がした。
「ねえ、わたし、もう体を売るのはやめるわ。やっと見つけた、ここはきっと教会、君は牧師。迷える子羊はみんな死んだ、きっとみんな食中毒で死んだのよ」
「なら僕たちは何を食べようか」
「時間を食べましょう」
「無限にお腹は膨れ続ける」
「膨れたお腹だって食べてしまうわ」
「僕たちはいつか一つになる。そんな気がする」
「一つになったら愛を食べましょう」
 愛情じゃお腹は膨れないんだ。そう言いかけたところで、僕は目を覚ました。薄汚れたベッドに、無数のシミ、ボロボロのカーテンからもれた光。隣に横たわる淫売の女は、傷んだ髪を枕にして寝ている。僕は耳元に向かい、同じ夢を見ているのかい、とこれ以上ないくらいの優しい声で呟き、その首元をゆっくり絞める。

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