[2009.12.03] la mars

 放課後、美化委員会の教師に教材室の掃除を頼まれた。ニヤケ顔でお願いする中年教師の顔が、この子は断る術を知らない、と言っているように見えて不愉快 だったけれど、やっぱり私は何も言えなくて、喉から言葉が出なくて、目を反らしてうなずいた。その横を一瞥もくれず歩き去る委員の子達は、私の存在など一 瞬も頭に入れず、それぞれ帰り道の秘密を考えていたに違いない。
 掃除用具を運びながら歩く廊下の床の温度が冷たく感じた。この状況が情けなくて、それでも忠実に従う私が何より情けなくて、顔中に血液が集まる。圧迫された喉に息苦しさを覚えた。
 辿りついたのは、今は使われていない教室を再利用した教材室。ドアから少しもれる光が弱々しくて、ここなら泣く私を存分に受け入れてくれると思った。
 用具を片手に静かにドアを開けると、そこにはダンボールや教材がわずかな整理の皮を被って大量に置かれていた。一瞬で気が減入る。どれだけ時間が掛かるか、という事より、こんな所で一人で作業なんかしていたら、ますます惨めじゃないか。私は少しだけ頬に涙が流れるのを感じた。
 立ち尽くし部屋を見渡すと、わずかに教室の名残を感じさせる教壇の上に机があって、その向こうからモクモク煙が上がっていくのが見えた。煙の元をよく見ると、人がいる気配がする。心臓が止まりそうだったけれど、とにかく掃除を終わらせないと帰れない。私はとっさに袖で頬を拭い、歪に高鳴る鼓動を抑えると、意を決して机に向かい声をかけた。
「あの……誰ですか?」
 煙の主は机からぬっと頭を出し、こちらを見た。
 男の子だった。ネクタイのポイントカラーが私のリボンと同じだったので、同じ学年の子なのだろう。でも、全く見覚えがない。そもそも学年に男の子の友達なんて全くいないので、誰だろうと分からないのだけれど。
「君、ここでなにしてんの」
 ぬっと出した頭を右手の頬杖で固定して、指先には煙の元が掴まれていた。
「わ、私はここの掃除を頼まれてて来ただけ。あなたは?」
「休息だよ。しばしの休息」
「でも、タバコ……」
「ここ丁度良いんだよ、滅多に誰も来ないしゴミゴミしてるしさ」 いわゆる不良には見えなかった。学年にそれっぽい子が居るから分かるけれど、目の前の男の子は髪も黒いし、ネクタイもピチっと付けているし、とにかく右手のタバコがおもちゃのように見えた。
「しかし一人でここ全部って大変だねえ……。サボっちゃえば良いのに」
「でも、頼まれたから」
「あらあら」
 そう言うと彼は立ち上がり、タバコを一口吸って、私の方に向かって煙を吹きかけた。煙なんて到底届かない距離で、私は空気に混ざる煙をじっと見ていた。
「君、どう?」
 男の子はポケットからまっさらな一本を取り出し私に見せる。
「え、でも、タバコ、体に悪いし、見付かったら大変」
「ここじゃ分からないよ。それに逆に悪いもの吐き出せるんだよ、これ」
 続く拒否らしい言葉を必死に探していた私は、彼の一言でその作業を中断する。
「わるいもの、はきだす?」
 少し笑って、まっさらな一本をポケットにしまうと、彼は机に腰掛けて口を開いた。
「嫌な事を考えて吐き出すと、煙と一緒に嫌な事が空気に消えていくんだよ。それが好きなんだ。だから俺は吸ってるんじゃなくて、吐いてるの。美味しいとかじゃなくて、ただ吐き出す作業が好きなだけ」
 やってはいけない事を勝手に正当化しているような気がして、私は珍しく、少し強気な言葉を吐いた。
「それって、かっこつけじゃない」
 彼はさっきよりも頬を緩ませる。
「そうだね、そう見えても別に構わないよ。自分が心からそうしたいと思ってるから、構わない。それでいいでしょ」
 何故か手にぎゅっと力が入っていた。正直に言えばさっき出会ったばかりの彼に嫉妬していた。どうしてこんなにもはっきりと好きなものを好きと言えるのだろう。私は我慢したり、妥協したり、そうやってきて、泣いている。なのに彼は好きな事を好きなようにやって、あんなに頬を緩ませている。
「ルールはあるよ。場所は必ずここで、放課後のみ。不思議とそうじゃなきゃ駄目なんだよなあ。ここだと悪い物が沢山出ていく」
 私は悔しくて、彼の言葉を無視して掃除を始めた。笑ってる彼の顔を見ないようにうつ向きながら。彼に見られながら作業をするのは辛いけれど、私にはこれしか目の前の理不尽に反抗する方法が思いつかなかったのだ。
 ひたすら掃除をして理不尽を溜め込む女の子と、ひたすらタバコで悪い物を吐き出す男の子。必死に体を動かしながら、今この場所は、社会の縮図だ、なんて馬鹿げた事を考えていた。まだまだ掃除は終わりそうもない。
 しばらく無言の空気が続いて、少し夕日が遠ざかり始めた時、彼が口を開いた。
「そんなに不満そうな顔で掃除してる人初めて見た」
「元からそういう顔なの」
 目を見ず答える。
 彼はふーん、と鼻で息を吐く。
「そうやって我慢して、残るのは不満だけ。それが貯まったら自分を責めて誤魔化して、また我慢の準備って事」
 腕から力が抜け、床に落ちたダンボールの中に入った文房具が音を立てる。なんとなく、ガラスの割れるような音に聞こえた。
「のらりくらり、はっきりしないで。君、大方ここの片付けも断れなかったんだろ」
 視界は一気に霞んで、ダンボールに書かれた文字が認識出来なくなった。
「ラマーズ法知ってる? ヒ、ヒ、フーって奴。二つ吸って、一つ吐く。結局一つ余計に溜め込んでるだろ。今の君そんな感じだよ」
 気付けばすぐ横に彼は立っていた。思ったより背が高いな、やっぱり幼い顔してるな、なんてどうでも良い事を考えるくらい思考は弛緩していた。
「……なあ、今日はサボって帰った方がいいよ。もうすぐ日が暮れるし」
「……だ」
 やがて弛緩しきった思考は、ただ意地を張れと命令する。
「え、なに?」
「いやだ!!」
 自分でもびっくりするくらい大きな声が出て思わず口に手をやる。私の声で部屋中のものがジーンと震えているように思えた。体が言う事を利かない程の感情に、体温がサーッと下がっていく。それと同時に、知り合ったばかりの彼を思いきり拒絶した身勝手さに、小さな心臓がビクビク動いた。
 あっそ、と言って彼は明後日の方向に歩き、しゃがみこんだ。わたしは人を傷付けた事実が怖くなって、とにかくすぐ謝らなければと思い、彼の屈んだ後ろ姿を正面に捉えて声をかけた。
「ご、ごめんなさ……え、何やってるの?」
 彼は何かごそごそ作業をしていた。ダンボールを両手で抱えて立ち上がると、顔だけこちらに向けて、ぶっきらぼうに言う。
「嫌なんだろ、サボるの。君がサボりたくないのは分かった。でもこの量は一人じゃ無理だよ。だから手伝ってんの」
 私は訳が分からず、恐怖の階段を三段抜かしで飛び越え、すっかり毒気を抜かれていた。
「だ、か、ら、君はサボるのが嫌。俺が手伝いたいと思う。それだけ」
 高い棚の上にダンボールを乗せながら「でけー声」と呟くのが聞こえて、胸にポッと温度が戻るのを感じた。
 それから私達は無言で体を動かし、日が落ちるギリギリの時間で、ようやく掃除を終わらせた。見違えるようになった教材室を、窓辺に立ち二人で見渡していると、彼はポケットからまっさらな一本を取り出し「環境変わって心機一転」と火をつけた。吐き出した煙はわたしの顔の前までふわふわ流れてきた。私がその 煙を息で吹き飛ばすと、お互い顔を見合わせて笑った。今なら、いや、これからは吐き出して吹き飛ばしてしまえる気がした。
「もう帰ろう、日が暮れてる」
「うん」
 そうしてドアに向かって歩く彼が、突然こっちを振り向き、少し幼い顔を意地悪そうに歪める。
「ねえ、帰る前に一本どう?」
 わたしはそんな彼が吐いた煙を追いかけ、思いきり吹き飛ばして見せて、
「絶対いらない!」
 素直に言えた。

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