[2010.08.11] 体温の低い羊

 右手道路沿い、街灯の真下に立つ看板、セレナーデ? セレネード? そんなことはどうでもいい。山道を歩く俺は左手でグーとパーを何度も作り、コラージュされた木々に確かな違和感を感じながら夜の匂いを吸い込む。
 少し前、牧場の息子だという友人と酒を飲んだとき、彼は笑いながらこんな話をした。
「うちには沢山の羊が放し飼いされているのだが、その中に一頭だけ異常に体温が低い羊がいて、そいつはいつも死んだ目をしている。柵をじっと見ながら、凍ったようにじっとしている。そいつはたぶん……」
 アルコールによる頭痛を交えながら俺はその様子を脳内で想像したが、どうにも色彩を帯びなかった。体温の低い羊だなんて、そんな詩的な動物、俺にはとうてい使いこなせしないのだ……。それでも、じっとりとしたそいつのガラスの目、その視線が俺の後頭部やや右寄りに張り付き、「順番」を待っている、そんな確かな不快感がその時の俺を支配していた。
 牧場の息子は家畜の餌である穀物や草のすえた香りを撒き散らしながら、牧場へ帰っていった。会計時に渡された紙幣にまでへばりついたその香りは、俺にその羊の存在を常に認識させた。やあ、羊よ、お前はどんな顔で、餌を食うのだ? いまだ色彩を帯びぬ俺の想像の中で、餌である草の色だけが、張り詰めた瑞々しさを伴って堆く、何処までも堆く、積もっていった。
 山道はゆるいカーブを描き、俺の歩様を崩す。極端に少ない街灯、そして足元すらぼやけてしまう俺の弱い視力なら、それも当然のことだった。昼からはっきりとせぬ天候によって、月明かりは期待できない。暗ければ暗いほど、俺の目はあらゆる距離を見紛う。そうして俺は俺自身の体の大きさ、厚さ、体積、重さ、 その全てを把握できなくなる。かろうじて時間の流れが肌に張り付いているのを感じたが、その時間の束は俺に動きを促すものではなく、名残惜しさ、言うならば、生きて返すまいという、粘着質な類のものだった。ここが何処で、どれだけ歩けば抜け出せるのか、いや、そもそも、何処に抜け出すというのだ、何処から抜け出すというのだ? それでもなお歩みを進めながら、俺は、美味い酒が飲みたいな、と思った。
 そうして歩き続け、ようやく見えてきた白い看板に描かれた文字、どうにか把握できた「樹海」という文字に、俺は大きな安堵と内からにじみ出る熱量を感じた。急に足元が軽くなったような気がした。なあ、受戒と樹海って、似ていないかい? 樹海という言葉を頭で読み上げるたび、神聖なるひかりを感じる理由は、恐らくそれだ。そしていまこの瞬間もその光を感じた。光は、俺の体に霧のごとく纏わりついた時間の流れを晴らし、今度は、後ろポケットに入れた財布、その中の紙幣から香るあの匂いが、新しい皮膚のように俺の体全てを包んだ。生命の誕生、赤子にしか解らぬ感覚、まるで子宮に守られている気分で、俺は歩みを進めた。何処に進むべきか、何処から何処へ抜け出すのか、解った。俺は開拓者の面持ちで、看板の矢印が指す入り口の方向へ向かった。
 歩道と車道を分かつ線、時折塗装の剥げたそいつを追いかけながら、歩き、しばらくして俺の目の前に現れたのは樹海への入り口だった。入り口から両脇に木々が走り、その中央に人が歩けるほどの道があった。その先の様子はほとんど分からない。街灯がある気配もなく、空気が濃密さをもって空間を圧迫しているように見える。それらを確認しながらも、俺の背筋には細かな電流が走っていた。導かれるように体が動く。俺はちょうど視界の中に入り口の全容を収められる場所へ移動し、立ち止まる。
 樹海と対面するこの場所で、俺は、いま、ひかりを感じている。背筋が強張るほどの、神自身の恩寵というべき、強大なひかり。それはもはや意思と言った方が適切なのかもしれない。俺にはわかる。俺には何もわからないということが、わかる。一番体温の低い羊、ガラスの目、堆く詰まれた瑞々しい草、紙幣に刷り込まれた香り、その全てがパズルのピースであり、独立したパズルであるように、俺もまたパズルのピースであり、独立したパズルなのだ。俺はひかりを感じている。更に、俺はもっと大きなひかりを、樹海のその向こう側に感じている。
 何も言うまい、俺は確かに踏み出した。その瞬間、微かにだが、右斜め後ろをついてくるあの羊を感じ、俺はそいつに話し掛けてやる。柵に頭を打ち付けても死ねやしないのさ。やがて、ねっとりとした濃い空気が、喉元に引っ掛かり、それっきり。

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