[2007.12.24] マヨネーズ

線路に飛び込む人を見た。
例えば「ホームに落ちた人を果敢に助ける勇気ある人々」の話は良く聞く。でもそれは当事者が他人同士であるから成し得る事じゃないか。事実、僕は何も出来なかった。ただそれが決まっていた事かの様に立ち尽くした。僕には彼女が視界から消えた事が理解出来なかった。
けたたましいブレーキ音に体が反応した時、僕はようやく事態を理解した。そして駆け出す。どうしようもない位地球が回っているのを感じた。
慌ててホームに降りると線路上に彼女が見えた。バラバラにならないんだ、と妙に冷静な事を考えながら走り寄る。青い靴を片方だけ履いた足をだらりと伸ば しながら、線路の上に横向きに寝そべる様に倒れていた。おはようと言いたい位に呆気無い倒れ方で、僕は毎朝そうしていた様に彼女を抱き起こした。どうやら 意識がまだある様で、頻りに体を動かしている。衝撃で壊れた腕時計をさすっていた。僕があげた、本当に安物の腕時計。
「新しい靴。」
彼女が口を開く。今考えれば、僕はこの時に「何故こんな?」と聞くべきだった。
「新しい靴、買おうね。」
靴なんてどうでもいいじゃないか。僕は必死に彼女の肩を撫で続ける。何故か良く分からないが、本当に彼女の肩が溶けてしまう気がした。
いつしか彼女の動きが止まる。壊れた時計を触る腕は動かない。深く呼吸をする。どうしようもない位地球が回っているのを感じた。
僕は脱げた片方の靴を探し出すと、それを彼女の足にカカトを踏まず履かせた。まだ履けるという事を証明してやりたかった。
そしてまた彼女を抱き起こすと肩に歯を立て、溶けて無くなる前に、それを食べた。

終わりなき悲しみが終わる頃に家に着いた。
ソファーに腰掛け、コーヒーをすすり、彼女の靴を履いてみる。窮屈で仕方ないが、カカトを踏まずに履ける度に僕は安心している。

最近、僕の肩が頼りなく見える事がある。それは彼女の血や肉が僕の中で生きている事に他ならないが、言い換えるなら消化仕切れない失意を背負った事になる。
もしかしたら僕は今終わりなき悲しみの中に居るのかも知れない。僕は、君は、いや、僕らはいつか、新しい靴を履けるだろうか。

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