[2010.01.09] ランフォウザグランマ

 「須賀千代」とネームプレートが掲げてある、ひんやりしたドアを開け、真っ白いベッドに横たわる祖母の小さな姿を見て、僕は時間という名のハンマーで頭を打たれた気がした。皺が幾重に刻み込まれた手は同じ人間と思えない、まるで粘土細工のようにちっぽけに思えた。
 僕は固まってしまった体をほぐす為に駅前の花屋で適当に選んでもらった花束を花瓶に挿すと、パイプ椅子に腰掛けて祖母に話しかけた。
「ばあちゃん、来たよ。匠だよ、分かる?」
 祖母はガラス玉の目をこちらに向けると、言葉の重さにすら負けそうな喉を震わせる。
「あれえ、どちらさまかねえ、もうご飯は食べたんけどねえ……」
「違うよ、ばあちゃんの孫の匠だよ。ほら、この瞼の傷、昔ばあちゃんが料理してる時俺がイタズラして割った皿で出来たやつ」
「ご飯は食べたんけどねえ……」
 祖母はぐったりとした様子で目を閉じて少し笑った。笑った顔が僕の記憶の祖母にかすって、余計に気持ちが沈んでいった。厚い厚い霧に向かって歩いている気分だった。

 祖母がボケ始めた、という事実を聞いたとき母と父は多分に驚いていたけれど、それが遠くはないと予想していたこともあって切り替え自体は早かったように見えた。僕はといえば、なんだかホームドラマを見ている気分で現実に追いつけていなかった。何より次の職探しに必死になっていた。
 祖母はもう十年程腰を悪くして入院していたので、実際の手続きに係る手間は少なく、あとは少しでも進行を遅らせる為に僕らが出来ることを考えるだけだった。医者からは話し相手を置いたり、散歩でも良いから体を動かしたり、そういったアドバイスをいくつか受けた。腰の悪い祖母に運動は出来ないことから話し相手を置く結論に至り、共働きの両親に代わり、失業中の僕がその役目を負うことになった。更に言えば、昔僕がおばあちゃん子だったこと、そして当の祖母がたった一人の孫である僕を大層可愛がっていたこともその結論に大きく作用していた。僕自身、毎日毎日ハローワークに通うことにうんざりしていたし、ほんの暇つぶし、気分転換になるだろうとその結論を受け入れた。
 若い頃、劣悪な環境で看護婦として働いていた祖母は、いわゆる忍耐を美徳として生きてきた古き良き女性だった。共働きで母が家の中に目が届かないことを一切咎めずに家事をこなし、小さな僕のイタズラを笑顔で許して尻拭いをした。決して苦労を表には見せなかったし、腰が悪くなり始めた時も、周りが必死に止めるまでせっせと家事を続けた。
 十年前、とうとう祖母が入院するとき僕は高校に入ったばかりで絵に描いたような反抗期だった。家族に全体に対する実体のない不信感。たいていの人がそうなるように、僕は家族との関わりを避けた。当然祖母の居る病院に顔を出すことはなく、両親から聞かされる近況でしか祖母のことを知る機会はなかった。そしてそれすら僕にはむず痒く、出来れば遠ざけたい内容だった。
 それから今日まで十年、惰性のまま僕は祖母の存在を忘れていたと言ってもいい。その間僕は人並みに高校生活を楽しみ、高校生にしては珍しいガーデニング好きな背の低い彼女が出来たりもした。その後、そこそこの大学に入り、それなりに就活をして中堅の証券会社に就職した。ようやく責任を持って仕事に取り組めるようになり、背の低い彼女とも上手くいっていた。そんな一見普通の人生も、約三ヶ月前上司に不当に被せられたミスを皮切りに崩れていった。そこで、僕は生まれて初めて人を殴った。残ったのは幾ばくかの貯金と、右手の痛みと、背の低い彼女のために買った指輪だけだった。
 酷く落ち込んだ僕は貯金を派手に使いながら堕落することに意味を見い出した。退職直後こそ怪訝な顔で僕に接した父と母も、あれから三ヶ月経った今は何も言わず、再就職のプレッシャーを朝食と夕食の時間に無言で合わせてぶつけてくるようになった。預金通帳と両親のプレッシャーに負けた僕は、ようやく再就職の道を歩み始めた。
 その矢先の出来事である。僕にしてみれば祖母との邂逅はこの鬱屈とした気分を紛らわす一つの逃げ場程度にしか考えていなかったが、むしろ見せつけられた時間の流れの大きさに余計逃げ場を失った気分になっていた。
 僕は同時に生まれた罪悪感を持て余すまいと、就活の合間を縫い週二度程病院に顔を出すようになった。祖母の反応はなんら変わりなく、僕自身を「須賀匠」と認識出来ていないようだった。しかし幸いなことに、僕を一人の人間として認識することは出来るようで、祖母は僕のことを「ヒロム」と呼んで次第に来訪を歓迎し始めた。昔亡くなった祖父の名前とも父の名前とも違うヒロムという名前が一体誰からきたのか、僕には分からなかったが、明らかに増えた祖母の笑顔のために僕はヒロムという人間になりきった。その行為は僕にとって十年という長い時間で詰まってしまった罪悪感の捌け口となり、祖母の笑顔はそんな僕の膿を出していった。

 僕がヒロムになってから、二週間経った頃だった。
 祖母はベッドの背もたれに体を預け、窓の外で吹きすさぶ風に巻き上げられた落葉をじっと見ていた。
「ヒロムさん、もう冬がきとるねえ、寒くなるからほうとうでも作って食べようかね」
「ばあちゃんの作ったほうとう、美味かったな。毎日食っても飽きないくらい美味かった」
「ほうとう食べて力つけたら、患者さんもみんな元気になるかねえ」
「ばあちゃんのほうとう食べたらみんな元気になるよ。患者さんもみんな元気になって、すぐ退院するさ。だからばあちゃんも元気になろうな」
「ねえヒロムさん覚えてる?良く二人で隠れてお喋りしたよねえ、夜中病室で、先生にあだ名つけあって笑ってたねえ」
 初めてヒロムという男に関わる情報を聞いた僕は、上手く話を合わせることにした。
「ああ、良くしたよ、覚えてる」
「もう随分昔だから忘れちゃったけど、とっても楽しかったのだけは覚えてるのよ」
「俺も楽しかったよ」
「あとねえ、一つだけ覚えてるのよ。ヒロムさんが私にくれたプレゼント、ちいちゃんにこれあげるって顔真っ赤にして、わたしまで顔真っ赤になって、結局二人で大笑いしたっけねえ」
「ごめんね、何あげたっけなあ、忘れちゃったよ」
「昔のことだもんねえ、ヒロムさんね、押し花を沢山集めたノートをくれたのよ。院内散歩してる時隠れて集めたって言ってたじゃない。私笑ってたけど、嬉しかったねえ。何処にいったのかしら、もう一度見たいわねえ」
 二人はきっと愛しあっていたんだと僕は思った。それも飛びきり淡くて、蛍の光みたいにただひっそりと。
 僕は窓に少しだけ反射した祖母をずっと見ていた。窓の外を舞う赤みを残した落葉が反射した祖母に絡まって、僕は冬の訪れを感じてた。落葉は風に乗って思い出に変わり、今祖母の頼りない体に鮮やかではなくとも、確かに色をつけていた。祖母の作りものみたいな乾燥した頬に、ほんのり暖かさが宿って見えた。
 祖母には、反射した僕もヒロムに見えるのだろうか? だとしたら僕にはそれを全うする義務があるように思えた。僕がずっと感じていた罪悪感はいつしか消えていた。今度はその空いた空間を、別のもっと暖かい何かで満たさければならない。

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