[2009.12.02] eat suru-

 昨日読んだ本の話をするミヨの手が、窓からの射す光で酷く白く見えた。力点から手までの光の中で、埃が雪のように舞い、影に逃げていく。そこにあったはずの埃は、次第に空気に連れ去られて見えなくなっていく。
「結局女は男を捨てて海外に行き、そこで富豪と結婚するの。悲しみにくれた男は自殺。救いようのない話だわ、まったく」
 否定的な感情を煙に乗せて吐き出しながら、ミヨは救いのない話を語り終えた。負の煙は煙幕のように、端正な顔を覆う。一瞬ミヨの顔が霞み、僕は必死に輪郭を目で追った。
「作者がいかに愛に恵まれず育ったか分かるわね」
 そう言い終えると、球体を模した緑色の灰皿にタバコを押し付け、僕の左の瞼を親指でなぞった。それは、この一週間で習慣になった、セックスごっこの合図だった。
 今まで沢山のたくましい指に触れられたであろう柔らかい体を、僕は抱きしめ、乾いたタバコの匂いと柑橘系のシャンプーの匂いが混ざった香りのする髪に顔を埋めていた。それは誰にも再現出来ないであろう、迷路のような匂いだった。
「あなた、完全な不能者じゃないのにどうしてセックスが出来ないのかしら」
 矛盾を含んだ発言だった。でもそれは事実で、僕はミヨといくら体を重ねても、達する事はなかった。
「今までずっと、って訳じゃないんでしょう?」
 綺麗にカールした襟足に指を通して、肯定の意味をありったけ込めて掴んだ。
 初めてミヨとそうなった時から、この一週間ずっと欠落した不能者だった。興奮や探求心は確かにそこにあるのに、柔らかい体に触れ、温い吐息を耳で受け止め、深い所に行くほど、他人のもののように離れていく。どうしてかは分からないし、また、どうしようとも思わなかった。毎回溶けるように脱力していく僕を、ミヨは責めなかったし、その時、僕の性に対する感覚も麻痺しているからだ。それでもこの一週間、ミヨは僕の左瞼を撫で続け、僕も拒否する事なく受け入れた。ミヨには結果の決まったゲームを楽しめるだけの余裕があった。
 「会社の上司が話かけてくる度に肩を触るの。出来るだけいやらしくならないようにしてるみたいだけど、そうすればする程いやらしくて。それが面白いから 最近自分からそいつに近付くんだけど、何か勘違いしてるのかしら、昨日誘われたわ。レストランを予約してるんだ、高いワインもキープしてあるんだけど、って。別にセックスしたいなら、そう言えば良いのにね。断ったけど、その時あなたの事を思い出したわ。出来ない人、出来る人。あなた、ある意味恵まれてるわ」
 目だけで僕を見据え、毛布に体を潜らせながらそう言った。
 綺麗な人だと思う。僕ぐらいの年の男が思い描く大人の女性を具現化したオーラを持っていた。指が何処までも滑りそうな白い肌、少しキツく吊り上がった 目、画家が探し求めるであろう赤い色、果実のような唇が、女性としての余裕を土台から頑丈に築きあげていた。でも、僕が知り合って間もない女の家に居座る 理由は、その美しさではなくある言葉にあった。
 家にこもりきりの僕を心配した友人が連れていってくれた、今まで僕に縁のないようなお洒落なバーで、隣に座っていたのがミヨだった。酒の種類など良く知らない僕は、手書きで少しすすけたメニューの中から、映画やドラマで良く見聞きした事のあるギムレットを頼んだ。しばらくして出された小さなグラスの中の 液体は、想像と違いとても苦く、一口飲んだ瞬間、僕は映画とドラマを恨んだ。
「別れの酒よ、それ」
 僕の右隣、椅子を一つ挟んで座っていた女性が声をかけてきた。友人も僕も射程外からの被弾に驚いたが、その行動が無視を不可能にしてしまったので、僕は精一杯の愛想でそれに答えた。
「そうなんですか、名前だけで頼んだんですけど凄い苦いんですね……正直お酒は良く分からなくて」
「じゃあ私のと交換してあげる、これ、甘いからきっと飲めるわ」
 ミヨは唇の色と同じ赤い液体を僕の前に差し出すと、当然の事のように僕の隣に座った。赤色の酒はキールというらしく、アルコールの苦味こそあれど充分な 甘味もあったので、僕は神経をそがれる事なくミヨと会話が出来た。友人は信じられないような、場をとりなすような小さな笑みを浮かべながら頬杖をついてい た。
「ねえ、あなた右目と左目で随分印象が違うのね」
 お互いだいぶ酔いが浸透した辺りで、僕の方に身を乗り出しミヨが言った。
「どういう事ですか?」
「右は普通なのに、左はすごく優しい目をしてる」
 そう言って、少し火照った左瞼に、ミヨの手が触れた。アルコールによる自制心の欠如は、難無く僕にそれを受け入れさせ、確かな形のない期待を芽生えさせる。ミヨの熱い指と視線を隅に捉えながらも、僕はアルコールの侵食してない部分の思考で、言葉の意味をずっと考えていた。でも、考えれば考える程、アル コールは侵食して正解までの経路を絶った。その日ようやく辿りついたのは、茶色いドアの、ミヨの家だった。

「覚えてるかな? 初めて会った時に言ってたこと。左目が優しいって」
「あら、そんな事言ったかしら」「言ってたんだよ、良く覚えてる。どうしてもその意味が分からなくてさ、ずっと考えてるんだ」
 変ね、と言いたげに眉を下げて、ミヨは僕の首に弱く噛み付き、頼りない痕を付ける。
「酔ってたからその時の事良く覚えてないけど、まあ、確かに左目の方が優しいわね。理由は分からないけど、何となくそう思うわ。草食動物みたい」
 鈍い痛みが刻み込まれた痕の真下で、根を張る血管が、血を運んでいるのが分かった。ドクドクと脈打つリズムと、いつかミヨに捕食されるのではないかという危機を知らす警鐘が、はっきりとシンクロしていた。その速いリズムは、この一週間何となく訊けなかった質問を強引に押し出した。
「なんで僕を誘ったの?」
 思えば二人の関係に関する話を、僕達は決してしなかった。ミヨはともかく、僕は避けていた。それは何処か現実味を帯びない状況を、険しい光に晒さない為の僕なりの方法だった。
 ミヨは目に触れる髪を耳に掛けると、僕のおでこの部分に視線を定めて、赤子に絵本を読み聴かせるようなゆったりとした口調でこう言った。
「あのバーで、居場所のなさそうなあなたの背中を見て、そう、ライオンの檻に迷い込んだ草食動物みたいに見えて」
「見えて?」
「食べたらどうなるんだろうと思ったの」
 言い終わると同時に、今度は僕の左の耳たぶに噛み付いた。かぶりついたまま笑うミヨの吐息にくすぐられ、僕は痛みを忘れそうになる。左目を閉じると、ミヨの顔は視界から消えてなくなり、少しだけ感じる痛みとくすぐったさと速度を増す警鐘だけが僕の体に、溶けきらない粉末のように、残った。

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