[2010.01.14] 思い出の意味 下

 次の日会社に行くと西浦はいつも通りの表情で僕のおでこにデコピンを食らわせ、デスクに向かっていった。目の周りが少し赤くなっていたことに心が痛んだけれど、西浦の堂々した歩き方を見て、僕はこいつには勝てないなと妙に晴れやかな気持ちになった。
 昼休み、僕は文具店に向かい画用紙と二十四色の色鉛筆を買った。僕はきっと西浦のようになれない。だから、僕は僕なりの罪の償い方を選ぶ。
 僕は家に帰るとすぐに画用紙を拡げ、色鉛筆を走らせた。絵を描くのはデザインサークル以来で、それも大学に入ってすぐ辞めたから、大体五年振りだろうか。あの頃僕はそこにあるものしか描いていなかった。でも、いま、僕が描かなければいけないのは、記憶、思い出、もうそこに無いもの。
 勘を取り戻すのにだいぶ時間がかかったが、同時に絵を描く喜びも戻ってきた。僕は無心に色鉛筆を走らせ続けた。気付けばもう、時刻は午前三時を回っていたが、結局僕は陽が出るまで絵を描いていた。
 次の日から僕は仕事の量を減らした。守るものが出来てしまった僕に、前の仕事量は消化出来なかったからだ。変わり始めたお前には期待してたのになあ…と上司は嘆いていた。西浦は穏やかになった僕の顔と比例するように、あの困った顔を見せなくなった。
 僕は絵を描くに当たって、いくつかのルールを決めた。
 必ず二人で体験した風景や物を描くこと。写真や映像を見ず全て僕の記憶に頼ること。絵は出来上がり次第、その都度美樹の病院に送ること。そして、それは色鉛筆を使い果たすまで続けること。
 最初の絵は二週間程で完成した。僕と美樹が初めて出会ったデザインサークルの部屋の窓から見える風景。どうしても腕は鈍っていたけど、忘れかけていた達成感に僕は小さな希望を見た。
 会社に行く途中、絵を郵送した。ギリギリまで悩んだけれど、差出人の名前は適当にすることにした。その代わりに画用紙の裏に「H・M」と入れておいた。
 その日を境に会社から帰っては絵を描く生活がずっと続いた。
 夏になると、二人で見た海の風景を画用紙一面、むせ返るほどの青で描いた。思いのほか冷たい海に、僕の唇が紫になって、それを見て美樹が笑ったのを思い出した。美樹が買った海の家の焼きそばがまずくて、僕がそれを泣きそうになりながら食べたのを思い出した。
 秋は、喫茶店のマトリョーシカを描いた。色や模様は思い出せなかったから、美樹の好きそうな色を沢山使って描いた。そういえば美樹はライムグリーンが好きだったということを思い出した。僕がトイレに行っている間、喫茶店の店長に冗談半分で口説かれて美樹が困っていたのを思い出した。その時、美樹はライムグリーンのワンピースを着ていた。プレゼントであげた別のマトリョーシカのセンスの無さに美樹が笑っていたのを思い出した。それを大事そうに家に飾っていたことも。
 絵を描く生活に慣れ始めた頃、会社の自販機の前で西浦と話をした。あの日から西浦は僕にコーヒーを奢らない、だけど困った顔もしない。
「相変わらず思春期って顔してるね」
「春生って名前からは、一生逃げられないからね」
「でも、なんか真山変わった」
「そう?」
「良い顔になったよ。弱気でもなくなった。男らしくなった」
「まあ、西浦のおかげもあるかな」
「何よそれ。よく分かんないけど、あんまりそういうこと言ってるとまた困らせるよ」
 西浦が冷たい缶を僕の頬に当てる。ひんやりした感触が胸にストンと落ちて、わずかに痛みを呼び起こした。
「やめてよそんな顔。大丈夫、嘘だから。それに彼氏も出来たしね」
 堅い物を飲み込むように言った西浦の言葉を聞いて、僕はほんの僅かに安心した。彼氏が出来たのは、たぶん嘘だろう。安心したのは西浦がそういう嘘をつけるようになったという事実に対してだった。
「ま、西浦はモテるからなあ。モテすぎて彼氏に愛想つかれないよう気をつけろよ」
「まさか真山に恋愛のアドバイスを受けるとはねえ」
「バカ、成長するんだよ、人は」
「真山は成長してないよ」
「え?」
「真山は優しいまま。今までも、今も、これからもずっと優しいまま。成長しないで、ずっとそのまま」
 缶コーヒーを飲み干した西浦が僕の頬にパーにした手を当てて、柔らかい肉をギュッと掴んだ。手のひらの手汗が、西浦の涙か、或いは僕の涙か、そんなことを考えた。
「また始めたら良いんじゃない?」
「そうだな。だから今はたぶん、始まりの始まりの始まり」
 西浦が僕の頬の肉を引っ張って、手を離した。鈍い痛みが、何故か心地良かった。
「私は女の子だからさ、切り替えが早いの。何度だって始められる」
 一度だけ困った顔をして、西浦は歩いて行った。そこには世界から逃げない女の子が居た。どうかこの強くて弱い女の子が幸せになれるようにと僕は願った。
 冬が来てまた何枚か絵を描いた。カエルのキャラクター、チープなクリスマスツリー、不細工な雪だるま、就活の合間を縫って二人で良く会った駅の風景。
 夏は明るい色を使い、秋はくすんだ色を、そして冬は寒色と白を沢山使った。継続して描き続けることで、僕の絵のスキルは着実に上がっていた。色鉛筆もまた、どんどん短くなっていく。視覚的に分かる残り時間を、僕は敢えて意識しないように、ただひたすら描くことに集中した。
 年が明け、冬は去り始める。
 とうとう色鉛筆が寿命を迎えつつあった。これまでに描いた絵は五十枚近く。それらは全て病院へ送った。きっと美樹は何のことか分からないだろうし、もしかしたら絵を捨てているかも知れない。それでも良いと思った。
 僕は最後の一枚になるであろう画用紙を開き、目を閉じた。その風景は今でも鮮明に思い出せる。最後はそれを描くつもりでいた。そしてその風景に必要な色は、幸いなことにこれまでの季節で消費されることがなかった。
 僕はゆっくりと画用紙に色を載せ始める。

 随分と暖かい日だった。天気予報はしつこいくらいに春の訪れを連呼していた。そんなこと、僕が一番分かっていた。
 消毒液の匂いをくぐり抜け、部屋の前にたどり着いた。向かう途中に医者とすれ違ったとき、軽く会釈をされた。あの時から時間が止まっているように思えた。なら、僕は今ここから始めよう。
 ベッドに腰掛けた女性は壁を見ていた。視線の先には大量の絵が飾られていた。そこには二十四の色で、鮮やかな思い出が広がっていた。女性が僕に視線を移す。
「どちらさまでしょう?」
 その声と言葉に、喉の奥から熱を持った塊がこみあげて来たけれど、僕は着ていたパーカーを握り締めて耐えた。
「僕はこの絵を描いた人間の友人です」
 女性はパッと目を見開いた。
「本当に?この絵、いつの間にか送られてくるんです。でも見る度なんだか懐かしい気持ちになって…私、この絵好きです」
「きっと彼も喜ぶと思います」
「ごめんなさいね、私差出人の方の名前、覚えてないの。ねえ聞いていいかしら、その人どんな人?」
 この一年の記憶が、克明に蘇ってきた。僕は少し詰まりながら、はっきりと言った。
「あなたのことを知っています。すごく、すごく優しい男です」
「そう……」
 女性は遠くを見るような目で絵を見回す。
「彼から預かった絵です。これが最後の絵だと彼女に直接渡して伝えて欲しいと」
 そう言って僕はバッグから画用紙を取り出し、女性に渡した。女性はそれを手に取ると、優しい目でじいっと絵を見つめた。
「匂いがしそうなくらい綺麗な絵ね」
 女性は視線をうつむきがちに、僕の手元の位置に移しながら言った。
「良い絵です」
 しばらく僕らは無言でずっと絵を見ていた。一年分の桃色が、画用紙いっぱいに咲き乱れていた。
 ふと、笑いを堪えながら女性が口を開く。
「ねえ、この絵を描いた人、嘘が下手でしょう」
「どうして?」
 女性がゆっくりと僕の右手中指を握った。その指は、僕の中指の第一関節の部分、しっかり刻みこまれたペンダコを撫でる。
 僕のハッとした顔を見て、女性が吹き出した。
「ねえ、今から私があなたのことを当てるわ。嘘が下手で優しくて、たぶんそう……イニシャルはH・Mね。どう?当たり?」
 そこには美樹が居た。僕は静かに頷く。
「それに、きっと昔私はあなたのことが好きで、あなたは私のことが好きだった。これは?」
 僕はまた頷く。ずっと奥にたまっていた鈍い涙が出口を見つけて押し寄せる。
「ねえ、あなたの名前を教えて」
「真山、春生」
「綺麗な名前ね」
 美樹が僕の頬に触れる。返すように僕も美樹に触れて確かめ合う。窓から射す日が壁の絵に降り注いで、思い出が温度を取り戻したようにただ光った。
「僕は君の名前を知っている」
 君はとても賢い女の子だけれど一つだけ間違っている。
「君の名前は美樹だね」
「そう、美樹」
 絵のサインを君は僕のイニシャルだと言った。でも本当は、H・Mは君と僕の頭文字から取って作ったイニシャルだった。でも、いまはそんなことどうだっていいだろう。
「ねえ、春に生きる美しい樹なんて、すごく素敵だと思わない?」
 今は始まりの始まり、だからまだ愛の言葉は要らない。ただ頬に触れて、君の名前を何度も呼ぶだけ。

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