例えば、自分の記憶に強烈に残る感動や絶望、些細な言葉、汚い言葉、綺麗な言葉、全方位の雄大な景色、絶えない笑顔、人を想うという感情、流れる季節への焦燥、君の名前、表情、仕草、艶やかな声、助手席のぬくもり、カーテンのように揃えられた前髪、気高い馬のポニーテール、それが全てじわじわ消えていくとしたら僕はどう思うだろう。
単純に考えて、嫌なことを忘れるのは嬉しいし、楽しいことを忘れるのは悲しいかも知れない。もしかしたら、もっともっと複雑な混ざりきらない灰色の感覚が僕を襲って、気が狂ってしまうかも知れない。
君は美しい樹と書いて美樹という名前で、僕は春を生きると書いて春生という名前だ。だから僕と君は春を生きる美しい樹だった。そう言って、僕らは笑っていた。
僕らが二十五回目の三月を迎えたとき、美樹が病気になった。それもとびきり奇妙な病気だった。少しずつ過去の記憶をなくしていくのだ。いま覚えている限りの記憶をどんどん忘れていって、最後には一日分しか記憶が出来なくなる、と医者は言った。治す方法は残念ながらありません、とも言った。
「春の顔を忘れないように、もっと近くで見せて」
美樹は車椅子を押す僕の顔を見上げ、両手で頬を包んだ。僕はただ「大丈夫」と呟いてそれに応えた。そのときの美樹の顔を僕は一生忘れない。確かに僕の目を見据え、心から僕を信じている顔だった。三月の木漏れ日が青く色をつけ始めた葉に綿のような化粧を施し、そこから生まれた影は未来の形に見えた。
僕は会社の昼休みに必ず病院に行き、二人の思い出を辿った。大学のデザインサークルで初めて出会ったこと、僕が美樹を好きになったこと、別れ話の末に僕がサークルを辞めたこと、仲直りの旅行で見た海のこと、良く行く喫茶店のマトリョーシカを美樹が欲しがったこと、UFOキャッチャーで取ったカエルがデフォルメされたキーホルダーを美樹にあげたら酷く微妙な顔をしたこと、お互いの仕事が忙しくてすれ違ったこと。そしてまた仲直りした夜に、二人はずっと一緒に居る気がすると僕が言ったこと。
美樹と僕は足跡を辿っては、花のように笑い、ときに黙り込み、或いは頬に触れて確かめ合った。
ただ、僕はその温度で何かを取り戻す度に、違う何かが蒸発しているような不安を覚えた。
美樹が最初に忘れたのは、僕達が出会ったころの記憶だった。美樹は頭痛に耐えるような仕草で額に手を当て、僕の言葉を反芻した。
「デザインサークル…デザインサークル…」
「そう、デザインサークルで会った。美樹はそのときモデルをしてて、僕はみんなと一緒にデッサンしたんだ」
「……ごめんね、どうしても思い出せない」
美樹はとてもとても悲しい顔をしていた。その優しい目に、決して消えることのない限りなく濃い影が落ちた気がした。それを知っているかのように、窓の外はどうしようもないくらい光に溢れていた。
「しょうがないよ、無理しなくていいから。もしかしたら何かの拍子に思い出すかもしれないしね」「うん……」
笑顔で病室を出た僕は、ドアに体をもたれると、込みあげてくる温度に負けないよう、何回も手の甲をつねって耐えた。
その日の午後、僕は会社で大きな、それでいて初歩的な失敗をした。自分で言うのもなんだけれど、僕は余り仕事で失敗をしない。挑戦をしないから。石橋を叩いて渡るから。急がば回るから。小さい仕事しかしないから。そう僕が自覚しているように、周りもきっとそう思っているはずだ。
上司にたっぷり絞られたあと、自販機の前で座る僕に西浦が話しかけてきた。西浦は同期入社の女子社員で、僕より仕事が出来て、頭も良いし、顔も良い。なのにサバサバしていて話しやすく、西浦と僕は良くくだらない話をしていた。
「珍しいじゃん」
「まあね」
「ザ・堅実の名が廃るよねえ」
「わかったんだよ。堅実なんじゃなくてただ弱気なだけだった」
「そんなん知ってる。でも真山さ、あんた最近おかしいよ、たまに死人みたいな顔で仕事してるときある」
「色々あるんだよ。年頃の男の子には」
「なにそれ、思春期みたい」
西浦はコーヒー缶の口を歯で挟みプラプラさせながら笑う。
「そう、俺はずっとずっと思春期なの。春を思ってるわけ。だから春生なの」
「センチメンタル真っ只中?」
西浦の馬鹿にするような口調が勘に触って、僕は思わず冷たい口調で「お前にはわかんないよ」と言ってしまった。
西浦は丁度痛みを隠すような困った顔をしたあと、缶を手に持ち口元だけ緩ませて「わかんないよ」と小さく呟いた。
西浦はよくこういう顔をする。人の痛みに敏感だから、こんな顔になる。
強くて仕事も出来て顔も良い、普通だったら近よりがたい西浦に僕が気を許せる理由は誰よりも西浦が人の痛みを労れるからだった。だから、これが僕を元気付けるための行動だってことも分かっていた。でも、僕にはもう余裕が無かった。
美樹は忘れていく。そしてそのスピードは季節の流れよりもっともっと早い。まだ、桜は咲いていなかった。
今日は喫茶店のマトリョーシカのことを忘れていた。美樹は何度何度もロボットみたいに「ごめんね」と繰り返し、苦々しい顔をする。そんな美樹の頭を撫でて、僕は慰める。大丈夫さ、絶対に大丈夫、僕はここにいる、ずっといる。その言葉が誰に向けられているのか、僕には分からなかった。
この頃になると僕の仕事の効率はどんどん悪くなっていった。
気付くとパソコンの画面に向かいあってボーっとしている。作成中の書類に「美樹、記憶、忘れる」「思い出、想う」「マトリョーシカ」なんて打たれてることもあった。当然上司から日に日に絞られていき、文字通り僕は残りカスみたいになっていた。
そんな僕に西浦は変わらずコーヒーをおごり、一方的にくだらない話をし、僕の乾いた笑いに気付き、あの困った顔をする。きっと西浦は昼休みに僕が必ず外出することに、とっくに気付いているだろう。それでも何も言わない西浦の優しさに、僕は感謝した。
四月に入って、桜が咲いた。命の燃える色が空を染めている。焼け付くような桃色が、全ての人の目を奪い、脳にその姿を刻む。
車椅子に乗った美樹は、道に落ちている桜の枝を拾い、それを僕に見せた。
「綺麗ね、春って綺麗」
「桜じゃなくて?」
「うん、春が綺麗なの。ねえねえ、春生って名前、私好きだよ」
「なんだよ今さら」
「私は美樹、あなたが春生。私は桜で、あなたが空。ぴったりじゃない」
「まあ、とってつけたみたいだよな」
美樹はキャッキャッと笑いながら、桜の枝に残る花の匂いを嗅いだ。
「ねえ春生、もしもね、もしも私があなたの名前を忘れてしまっても、きっと桜の匂いを嗅いだら名前を思い出すわ」
「縁起でもないこと言うなよ」
「いいの。だからね、その時は私の名前を呼んで欲しいな。そこからまた始まるの。桜が毎年咲くように、何度終わったって始まる。あなたは春で、私は桜だもの」
「バカだな、終わらないよ。絶対終わらない」
「ふふ、ごめんね」
そうして僕らは桜の下を歩き続けた。ずっと先まで続く桜並木は、春が終わらないように思わせる。もしかしたら時が止まったんじゃないか、とすら僕は考えていた。同時に、止まって欲しいと、僕は心から祈った。
帰り際、医者に呼び止められ、美樹の記憶がとうとう一週間まで迫っていること、明日には一日分になることを告げられた。僕はその場で泣き崩れ、医者を罵った。
正直に言って、僕はこのときの記憶があまりない。どうしようもない激情を忘れる怖さを、美樹はこうやって毎日のように味わっているのだろうか。そう考えると震えが止まらなかった。やっぱり僕は誰かの為に生きられる程、強い人間ではなかった。
桜がその命を燃やしきったと同時に、僕は美樹に会うのを止めた。連絡も取らないようにした。
僕はただただ怖かった。全て忘れた美樹と向き合い、笑っていられる自信が僕には無かったのだ。
結局僕は記憶から逃げることを選んだ。
失った色を、僕は仕事で埋めた。何も失う物のない僕は、大きな仕事を自ら名乗り出て請け負った。過労死ギリギリまで仕事を詰め込み、最後まで会社に残った。上司は僕を労働者の鑑と讃え、西浦はもっと困った顔をして僕にコーヒーを奢った。けれど、何も感じなかった。達成感も無い、疲労感も無い、罪悪感も無い、完全なる麻痺。
そんな生活が一ヶ月続いた。
仕事が一段落し、久しぶりに定時に帰ろうとしたとき、西浦が僕を飲みに誘った。
先んず乾杯し、料理に手をつけていると西浦が切り出した。
「どうしちゃったの?」
「何がさ」
「前もおかしかったけど、最近の仕事ぶりはもっとおかしい。あんたらしくない」
「思春期が終わったんだよ。春を忘れて、仕事に目覚めた」
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあなんであんな怖い顔して仕事してるの?」
「西浦、良く見てるよなあ」
「見てるわよ」
「なんで?」
「あんたのこと好きだから」
そう言って西浦がビールを飲み込む音が、やけに明瞭に聞こえた。更に西浦が何かを言い掛けたとき、丁度店員が唐揚げを運んできて、空気が途切れた。
浴びるほど飲んだ。酔わなきゃ自分を失ってしまう気がしたからだ。
無言の帰り道の別れ際、僕は西浦の腕をつかんで抱き寄せた。西浦は、やっぱり困った顔をしたあと「バカ」と呟いて僕に身を任せた。
ふらふら揺れる頭に、シャワーの音が響いていた。西浦の家につくと、僕はベッドに寝かされ、西浦はシャワーを浴びると言ってその場を離れた。
見渡した西浦の部屋は想像よりも女の子らしかった。可愛らしいパンダのぬいぐるみや、恥ずかしいタイトルの少女漫画、花柄のカーペット。美樹の部屋もこんなだったなと思いかけて、僕は頬をつねった。
西浦はタオルだけを身に付けシャワーから出てくると、そのまま僕の隣に潜り込んだ。間近で見る西浦の顔は、やっぱり綺麗で、僕は思わず目を背けた。濡れた髪から何処かで嗅いだようなシャンプーの良い匂いがした。
「髪、良い匂いがする」
「シャンプーしたばっかだもん、当たり前じゃん」
「これ、何のシャンプー?」
西浦は自分の前髪を鼻に持って来て「確か、桜」と言った。
そっか、と言って、何も言えなくなった。急に黙り込んだ僕の目を、西浦が覗き込む。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「なんかあるでしょ」
「なんでもないよ」
「じゃあさ」と言い掛けて、西浦がふっと笑う。
「どうして泣いてるの?」
そう言われて初めて僕は頬に流れる涙に気付いた。気付いたら、なおのこと溢れだした。溢れだしたら、止まらなくなった。
西浦はそんな僕のおでこにデコピンをしたあと、この世の全ての慈愛を集めた声で「バカ」と吐き出した。
僕はもう、枕がビショビショになるくらい、さっき飲んだアルコールを全部排出するくらい泣いた。いつもの調子で「結局思春期真っ只中じゃない」と言う西浦の優しさが、痛くて痛くてたまらなかった。それでも匂い続ける桜の匂いが、悲しくて悲しくてたまらなかった。
しばらくして、落ち着いた僕はベッドの中で西浦に尋ねる。
「もしも、とても好きな人が自分のことを忘れたらどうする?」 西浦は少し考える。
「私はさ、結局女の子だからさ、まず泣く。めちゃめちゃ泣いたあと、結局女の子だから、気が済むまで好きって言って」
「そのあとは?」
「その人の幸せを願う」
「強いな、西浦は」
「弱いよ」
「俺は弱気だからさ、逃げることしか考えない。だから西浦は強いし、カッコ良いよ」
「バカ、やめてよ」
「俺、西浦は世界で一番良い奴だと思う」
西浦は歪みかけた顔を一瞬布団で隠し、いつもの顔を作って「本当バカだよね、真山って」と笑った。
「バカだけど、やっぱり好き」
「ありがとう。でもごめん」
「良いよもう。気にしないで。私、めちゃめちゃ強いから」
僕のおでこをつつく。
「ねえ真山、良く分かんないけど、後悔しないで。私真山のこと何も分かんないけど、真山はたぶん優しすぎる」
僕は笑顔で西浦の言葉を受け取り、部屋を出た。