ふらふらした足場に多少戸惑いつつも、埃に塗れたドアを開けた。真っ暗な部屋の中、窓のそばの椅子にゆったり腰掛けた女。右手首に五線譜を刻んで、色の 濃いコーヒーを飲んでいた。俺はただ突っ立ったまんま、その顔を見つめる。素直な生き方は、難しいんですね、と彼女は呟き目を閉じた。俺はその場に座って 窓の外に視線を移した。遠くの空にミサイルが飛ぶ。
誰もいない城の孤独な男の話を思い出す。昔、遠い町で聞いた、悲しい悲しい、狂った男の話。
彼は、使用人も執事も誰も居ない城で毎日を過ごしながら、絵を嗜んでいた。立派な城のアトリエに篭って、起きて、絵を描いて、寝て、起きて、絵を描いて、たまに外をぼんやり見つめる。他に誰も居ない事は気にならなかった。パレットの中の色は無限だったから。
そんな生活を続けていたある日、彼はふと、思い立つ。
それから彼はいつもの何倍も、何十倍も時間を掛けて、ある絵を描き上げた。笑うとエクボが出来る綺麗な女性の絵。
そしてその晩、彼は拳銃でこめかみを打ち抜いて死んだ。
気が付くと夜になっていた。どうやら眠ってしまったようだ。彼女は窓の外を見つめながら、手首の五線譜で曲を奏でている。短調の切ない曲。
「夜は随分と冷え込みますね」
冷たいコーヒーを飲みながら彼女は言う。遠くで飛んでいるミサイルが流れ星の様に見えた。
「そう、彼は本当に狂っていたんです」
孤独な男の描いた絵は無造作に床に散らばっている。色褪せたそれを、1つ拾い上げる。
「絵を描く植物人間、とでも言うのでしょうか。だって私にだって気付かなかったんですから。どんなに大きな声で彼を呼んでも、表情一つ変えずに絵を描いていました」
活気に溢れた町の一ページ。優しそうな少女が爪を噛む幼い弟の頭を撫でている絵。
「私は、それでも良かった。彼は私を救ってくれた人だから。彼に気付かれずとも、彼の一番近くに居れたら、それで満足でした。毎日を彼と共に過ごし、彼と共に終えて、たまに描き上がった絵を見て、心躍らせる。とても、幸せでした」
彼女は目を瞑りながら、冷たいコーヒーに口を付ける。
「そんな生活が続いて、ある日、急に彼の様子がおかしくなりました。彼が気付いたんです、私の存在に。この理由は今になっても分かりません。もしかしたら、長い時間を掛けて、彼の心は癒されていたのかもしれません」
少し腰が痛いので立ち上がる事にした。俯く彼女の顔は丁度影に隠れている。
「私は怖かったんです。彼が気付いてしまえば、この幸せな生活も終わるだろう。私に愛を注ぐ事はない。そう考えると居ても立っても居られなくなりました」
彼女の手首の五線譜からは音符が溢れ出していた。
「彼が私に気付いた夜、そう、今日みたいにあの日も沢山ミサイルが飛んでました。倉庫から拳銃を取ってきた私は、絵を書き終えてベッドで眠る彼のこめかみに、そっと銃口を当てました……震える手を噛み付いて制しながら、やっとの思いで引金を引いて……」
俺は、ただぼーっと突っ立って爪を噛む。
「これで全て終わった、と。その時は思いました。すぐに私も死ぬつもりでしたから。でも、最後に彼が描いた絵を見たいと思ったんです。ふふ、冥土の土産って奴ですね」
少し顔を上げた彼女の笑顔にエクボ、窓から漏れる光で影を落として、思わず吸い込まれそうになる。
「ともかく、私は彼のアトリエへ急ぎました。彼が最後に描いた絵、キャンパスに描かれた絵画……笑わないで下さいね?」
大きな深呼吸と反比例するような小さい言葉。
「私の、肖像画でした」
ゆったりと椅子に腰掛けなおして、右手をだらりとさせて呟く。
「何もかも、遅かったんです」
溢れ出した音符は部屋を埋め尽くさんばかりに広がって、彼女の手首の五線譜は六線譜になって、七線譜、八線譜、九、十――
「私は彼を愛していました。そして、愛するが故に恐れて、きっと、きっとね、狂っていたのは、私だったのかなって」
悲しい男の話には続きがある。男には愛する女が居た。ぼんやり見つめる外の世界で見つけた、弟と二人で暮らす美しい女。ミサイルで焼かれた町で生き残った女。夢の世界に迷い込んだ女。不器用で優しい男に助けられた女。
目を開けたまま、体だけ現実に残された愛する女の為に、男は絵を描き続けた。毎日、毎日、何枚も、何枚も。描き上がった絵は欠かさず彼女に見せた。反応 が無くとも、見えているはずだと信じて。使用人達はずっと前に愛想を尽かして出ていってしまったが、そんな事はどうでも良かった。他に誰も居なくとも、意 識が無くても、ただ愛する人と一緒に居られるだけで幸せだった。
ある日いつもの様に描き上がった絵を見せていると、彼女の手がピクリと動いた。男は歓喜する。もしかしたら……そんな希望を見つけた男は、目を覚ました彼女に見せる為の絵を描き始める。いつもの何倍も、何十倍も時間をかけて。
その間にも彼女の様子はどんどん良くなっていった。希望はいつしか確信に、そしてキャンパスの彩りに変わっていった。
そしてとうとう絵は完成した。椅子にゆったり座って、エクボに影を落とし微笑む彼女の絵。ここ最近の様子だと、明日辺りに彼女は目を覚ますだろう。男は目が覚めた彼女に全てを打ち明ける事を誓って眠りに落ちた。おはよう、ずっと、ずっと前から君の事知ってたんだ、と。
部屋を埋め尽くしていた音符は少し前に窓から逃げて行った様だ。
彼女は少し疲れたように笑いながら、はっきりとこちらを向いた。
「爪を噛む癖、変わらないのね」
そう言って手元のコーヒーを飲み干すと彼女は目を閉じた。また私の絵、描いてくれるかな、と微かに呟いて。もう一生目を覚まさない――いや、明日目を覚ますかもしれない。だってほら、そうだろう? 耳の奥にビーンと耳鳴りが鎮座し始める。
少しして俺はドアに手をかけた。一度部屋を振り返る。姉さん、と声を出すと、振動は部屋を埋め尽くした。きっといつか誰かが噂する、悲しい女の話にも続きがあるんだって。俺はふらふらした足場へ踏み出し、床に転がっていた絵筆を握り締めてアトリエへ向かった。