昼間から強かった風が少し穏やかになり、太陽は西へ逃げ始めていた。
ある知人から「記憶を売る少女」の話を聞いた。町外れの小さなアパートで、記憶を切り売りして生活する少女。涙にろ過され、ガラス細工の瓶に注がれたそれは、七色に光ってとても綺麗だと言う。知人から話を聞き終わると俺は好奇心のままそのアパートへと足を向けていた。
アパートの2階、角にある部屋にその少女は住んでいるらしい。階段を昇り、部屋の前まで来ると、ドアが全開になっている。中が見えないようにカーテンらしき物が付いているが、余りに不用心ではないか。その光景に少し戸惑いながらも意を決してチャイムを鳴らした。
「どちらさまですか…?」
中から出てきたのはワンピースを身に纏った白い肌の綺麗な少女、年の頃は18、9くらいだろうか。一見すると普通の少女に見えるが、俺はすぐに彼女の体に違和感を感じた。彼女にはあるべきはずの両腕がない。
「あ、あの、俺、ここで記憶を売ってるって…。」
ああ、という顔をすると彼女は俺を中まで招き入れた。そこで、初めて全開になったドアの意味に気付いた俺は、気持ちが重く沈んでゆくのを感じた。
予想通りというか何と言うか、彼女の部屋は殺風景だった。白いベッドに、クローゼット、小さなテレビに冷蔵庫、まるで単身赴任の会社員の部屋に思えた。1つだけ不自然なのは、机の上に並べられた綺麗なガラス細工の瓶。
「随分と簡素な生活をしてるんだね。」
「うん。必要無いから。」
素っ気無く返事をすると彼女は早速記憶の売買について説明を始めた。買い取った記憶はどの様に使おうと構わないという事、記憶の指定は出来ないと言う事、代金は気持ち次第という事。説明が終わると彼女は俺にガラス細工の瓶を持たせて、あなたが集めて下さい、と言った。
「なあ。」
瓶を持ったまま俺は彼女に問い掛けた。
「腕、どうしたんだい? 言い難かったらいいんだ、ただ、さ、気になって。」
「…生まれた時から無かった。」
「こんな所で一人で暮らして、お父さんとお母さんは?」
「お父さんは居ない、お母さんはずっと前に死んじゃった。」
何の感情も見せずに答える彼女に少し薄気味悪さを覚えたが、端正な容姿がそれを打ち消す。昔読んだ本にこんな悲しい女の子の話があった。その本の中の女の子も両親が居なかったが、最後はハンサムな王子に見初められて幸せになっていた。
特に急かす様子もなかったが、そろそろお互い気まずいだろうと判断した俺は彼女の顔の下にガラス瓶を寄せた。それに反応した彼女は目を閉じる。俺には分からない『涙を流す準備』って奴だろうか。目の当たりにした事の無い状況に多少身構える。
ポタッ。ポタッ。
美しい瞳から生まれた水は、頬を伝い、白い顎に向かって楕円を描いてガラス瓶に落ち始めた。なんて不思議な絵だろうか。不自然極まりない構図を自覚する と、自らの羞恥心と罪悪感が首を擡げる。俺は何をやっている?彼女は泣いて、俺はそれを集めている。耐え切れなくなった俺は目を逸らした。
その間も絶えず涙は流れ続け、彼女は目を閉じている。何を考えて涙を流し、どの記憶を忘れているのか、俺には分からない。忘れる記憶も無いのかも知れな い。そう思うと妙に切なくなった。薄気味悪さはとうに消えて、あの本の女の子よりも目の前の彼女の方が悲しくて仕方が無い。
どれくらい経っただろうか。
「ねえ、もう。」
終わりにしよう。言い終わる前に俺はガラス瓶を置いた。3分の1程度入った綺麗な液体はゆらゆら揺れながら窓から注ぐ光を反射させてキラキラ光っていた。
「どうして?」
「もう、良いんだ、俺は、欲しくない。」
理解が出来ない、と言いたげな彼女の目にはまだ涙が流れている。アンバランスな状態は彼女の美しさをより際立たせた。目を奪われた俺は思わず彼女の頬を拭う。指についたそれはひんやりしていた。
「どうしてあなたが泣いてるの?」
「だって君は、自分の涙すら拭えないんだろう?」
彼女の過去も、今も、これからだって知り得ないが、その事実が俺にとっては何より悲しかった。
「だから、売るの。拭えないから。誰かに渡さなきゃ、涙で溺れちゃうから、だから売るの。」
流れ続ける涙を拭い続けて、俺も泣き続ける、窓の外は暗くなり始めていた。
「もう随分と沢山の事を忘れたんだろう。」
「何を忘れたのかも、忘れたから。もう分からないよ。」
「なら、もういい、もう止めるんだ。理由のある涙よりも、理由のない涙の方が悲しいから。」
人は悲しい記憶を忘れる事は出来るが、その傷を無くす事は難しい。そんな言葉を昔聞いた。そしてその傷は誰かと共有する事でしか救われない、とも書いてあった。もしそうなら、彼女はもう救われないのだろうか。
「悲しいって気持ち、分かるかい?」
彼女は少し首を傾げると、床にペタンと座り直し、思い出した、と言った。
「なら、さ、その悲しいって気持ちをさ、少しだけ分けてくれないかな?」
あの本の女の子は幸せになった。同じ様には彼女を救えないかもしれない。俺はハンサムな王子ではないから。
それは好奇心で訪れた罪滅ぼしなんて大層な物ではなく、かと言って恋なんて純粋な物でもない。適当に混ぜた絵の具のような気持ちを抱えたまま、俺は彼女を抱き寄せた。特に何の反応も無く、腕の中にすっぽり収まる白い肌。
「目が痛い。」
「泣き過ぎたんだよ。」
「ううん、ずっと前から痛かった。」
「いつから?」
「お母さんが死んだ日からずっと。」
「そっか。」
ふと窓の外に目を向けると陽が落ちていた。星や月なんて気の利いた物は見えない。見えるのは街灯と、反射して映る俺と彼女の姿。泣き疲れてしまった。こ んな生活を続けて良く目が腫れないな、なんて下らない事を考えながら腕の中の彼女を見ると目を閉じている。また少し涙が流れていた。だから拭って問い掛け る、その涙に理由はあるかい?すると頷いて、顔を埋めてしまった。七色に光るそれは夜でも綺麗に見える。少し間を置くと、彼女は今日初めて感情を見せて 言った。
「だって、わたしはあなたの事を抱き締められないから。」
穏やかな風は消えて、太陽は東を追いかけ始める。