君は街灯の少ないほの暗い通りを、息子の名前を忘れてしまった老婆のように緩慢な足取りで進む。金木犀の香りなどあたかも存在しなかったかのように覆い隠す腐敗臭の出所を脳の隅で探りながら、君は通りすぎる電信柱に一つ一つ名前をつけていく。君はそれらに花の名前をつけることにした。その名前すら、この世に本当に存在しているのかどうか危うい、想像上の花の名前で有ることを、君は充分理解している。電信柱に想像の花の名前をつけるという行為は、君のごく小さな生活における曖昧な領域をゆうに包括する、素晴らしく刺激的で知的で無数の広がりを携えた遊びであると君は確信している。
ちょうど視線の先にコンビニエンスストアの光を捉えたとき、君は背中に視線を感じる。地球の裏側から見られているような、生まれたときから背中に張り付いていたような、若しくは母が涙を堪え我が子を叱りつけるときのような、得も言われぬ視線に、君は思わず振り返る。そうして振り返った先に何かを見付けることはないだろう。そこにはなにもない。しかし君はその瞬間、穢れた生活の中で辛うじてしがみついていた、わずかしかない「大事なもの」を失っている。君はそれに気付かない。消え行くものは君の足取りを止めない。君はもう一度踏み出し、そこから三歩進んだとき、ふいに耳鳴りを感じる。それは子宮の中を埋め尽くしていた音のように、君の肢体に鈍い重力を与える。僅かにしか進まぬ自らの不安定な足元を見据えながら、君はもう一度生まれ変わるときの情景に思いを馳せる。足元は更に不安定さを増し、時間はそれに付き合おうとしない。
住み慣れた家に辿りついたとき、君は針の先端のような悲しさを全身で受け止めることになる。ごく普通の我が家の空気は、君に失ったものとその重大を知らせるだろう。そして嘆き、悲鳴を、叫び声を上げ、部屋中の壁に爪を立て、神経質に整頓された食器を全て叩き割り、両の掌をこめかみに当てる。時計の秒針の音の間隔と涙が零れ落ちる間隔が等しいことに気付いても、今の君はそれに美しさを見出せない。代わりにへばりつくような悲しみが君を捕らえて離さないだろう。何故なら、「悲しい」ということが、反面、気が狂いそうなほど美しいということを君は知っているからだ。
それでも君はまだ気付いていない。それは君の性格にとって許せない事実であり、そもそもポーズを何より気にする君には、到底理解に達しうるものではない。
あのとき、君が振り返ろうと、歩みを進めようと、君の大事なものは失われていたのだ。君はいつも、平面でしか映らない美しさに跪き、決してその奥行きを確かめようとしない。
また俺は失ってしまった。