[2010.11.01] catch twenty two

「仮に全く同じ視点を持ち、物質的にも知覚できると仮定し、君がその”形をなした他愛のない劣等感”に抗って、果たして終着点は何処になるんだい?」
 僕は先生の顎から頬にかけてまばらに見えるゴマ塩のような無精髭に視線をあいまいに定めて、ゆっくり答えた。
「僕には有益たる劣等感という存在が理解出来ないのです。例えば世の中……ああ、当然それは僕にとって漠然としていますが……ともかくその世の中の、倫理って奴がいつも悪臭を放つ大口を開けて、僕を頭から飲み込もうとしている。寂れたトンネルのような喉を目の前に感じ、そいつの荒い吐息を耳たぶに受けながら、僕はどうにか逃げようとするのだけれど、手も足も言うことを聞かない。びくとも動かない。どうやら先生、僕は縛られてしまっているのです」
「君はもがき、最後には食われると?」
「それは単に身体的な反射の結果にしか過ぎません。ですから、実質的な終着点はありません。敢えて答えるのならば、浄化です」
 横向きに座った先生は眉一つ動かさず、傍目から見れば寝ているように見えるほどのっぺりした面持ちで話を聞いていた。薄い青のカーテンで閉め切られた窓から、思いのほか強い光が漏れ出し、延長線上に先生の椅子の背もたれと僕の膝下を捉えていた。
 光は人間を平等に照らしているもので、レトリックとして用いるならば常にポジティブな使い方をされるだろうが、僕にはどうしてもそれが肥え太ったあいつにしか見えないのだった。そもそも最初にあいつを使役していたのは僕たちのはずなのに、いつから逆に使役されるようになっていたのか。それは僕たちの思い上がりだったのだろうか? 産まれるということ、その言葉は即ちそれだけの意味しか持たぬはずが、いつしか足枷が取り付けられ、足元には沼地が生成され、四方を限りなく物質的な壁に囲まれてしまうようになった。悪辣な寓話のような話であるが、何よりも救いがないのは、その環境を求めたのが、他ならぬ僕たちだということだ。
 会話の内容を書き連ねていたペンを止め、先生が僕に一瞥をくれて言った。
「君が面白いのはね、浄化という言葉を選ぶところだな。『自分は穢れているに違いない』という証明に躍起になりながら、その問いかけと解答の繰り返しを楽しんでいるんだ。自責を好むという点ではマゾヒストに近いが、そうしながらも自愛にただならぬ視線を送っているという辺りがどうにもね、崇高なる性病といったところか」
「その思考自体も、いまでは反射にしか過ぎません。ですから、先生の言うところを加えるならば僕は崇高なる性病を患った永久機関なのです」
 二人共笑わなかった。
「他者からの理解を拒むかね」
「拒みません。ですが、受け入れることと拒まないことは違います」
 傲慢だ、と呟きながら先生は白衣の胸元にある煙草の箱から片手で器用に一本取り出して吸い始めた。機嫌が悪そうに見えるが、元々柔和とは程遠い顔つきの為か判断がつかなかった。
 先生は二口深く吸い、煙の行く先を見ていた。
「その劣等感すら君自身に端を発し、君自身で完結しているのなら、これほど滑稽なことはないぞ」
「しかし、僕は自らを慈しむ心を忘れてはいません」
「君は穢れているのでなく、毒を患っているよ。時が経つほど蓄積され、苦しみは無尽蔵に広っていくが決して死には至らない、性質の悪い毒だ。そしてその血清は君の崇高な自家発電では手に入れられない。生涯、解毒されることはない」
 許しを待ちますよ、そう言って僕は席を立った。

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