ヨシフは前髪の間から覗く神経質そうな両目で穏やかな川を見つめ、静かな熱量を攪拌するように言った。
「ここにいたらぼくの体はおかしくなってしまう!街を出なきゃ、それも急いで、今すぐにでも。ぼくには分かるんだ
、この世界がぼくの頭の中を狙ってるってこと。あいつらは暗い部屋のでも手に取るようにぼくの居場所を把握してる。逃げるんだ、誰にも見つからないように、誰にも関わらないように、今立っているこの場所の裏側まで!」
僕は手元にあった小石を川に投げ入れ、水しぶきに反射する光を視界のなかに探す。
「きっと逃げ切ったらぼくは歌を歌うよ。牧場の歌だ。羊と山羊と牛と、生い茂るかわいらしい草のための短い曲さ。人間を躍らせる曲なんてまっぴらだ、逃げた先でぼくは人間以外のなにかになるんだからね。ねえ君、これから先近くの牧場で羊と山羊と牛が逃げ出したときはぼくが逃げ切ったと思ってくれよ。そのときは大きな声で笑ってくれ、そして、もし出来たらだけどこの場所に種を蒔いてくれると嬉しいな」
「わかったよヨシフ。でもそれを待ち続けて僕が死んでしまったら、誰がそのことを覚えているんだい?」
「勘違いしちゃいけないよ。ぼくはとてつもない大仕事をする訳じゃない。感傷のための段取りや、何かへのそれらしい反抗を扇動するつもりもない。ぼくが逃げ切る前に君がいなくなったり、ぼくのことをすべての人が忘れても、それはそれだけのことさ。世界中の父は変わらず髭を剃り、世界中の母は変わらず食器を洗う。その間も沢山の子どもが生まれて、沢山の老人が山へ捨てられるよ。ぼくはそんな無数の繋がりからすらも逃げようと思っているんだ。ねえ、思わないか?ぼくたちはまるでチェスの駒のようだって!」
そう言ってヨシフは走りだす。ぼろぼろの服と穴の開いた靴に赤子のような真っ赤な頬を貼り付けて。
僕は背中でヨシフを見送り、川に反射する光の眩しさに疎ましさを感じながら、きっとヨシフはもう戻ってこないだろうと思った。
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