[2012.06.15] 絵筆

 変わらぬ生活というものや、この場所以外で起きていることに思いを馳せたり、夢見がちな空想を膨らませながら暮らしております。元気でいますか?わたしは最近花を育て始めました。花に詳しくないので名前は分かりませんが、種の袋には、花弁が小さく儚い桃色の花の写真が載っていました。またひとつ、思いを馳せるものが出来たと思います。こうしている間にもいつかわたしの心を焼いた何かを忘れていくことに、ちくりとした感傷を覚えますが、それを繊細さとして胸の隙間へそっとこぼすにはわたしは歳を重ねすぎたのだと思います。以前のわたしは、人のにおいのしない工業地帯の風景や塗装店の白いインクがはねた壁、小さく汚れたメリーゴーランドなどを見ると、そういった繊細さに結びつけてはぎゅっと口に力を入れ、なにものでもない言葉を頭のなかで思い浮かべたものでした。そんなときわたしはおおきな塊となって、まるで動けなくなってしまうのです。その頃のわたしは、自らが動物であるとなによりも深く感じていました。時間は常に人の機微を鈍らせていくのではないかしら。時間は流れると表しますが、そっとすくいとってみれたら、どんなに気楽なことでしょう。そうしたら時間と古き友のように、わずかな繋がりを保ったままで生きていけるのだから。
 そういえば、かわいらしい人が増えたと感じるのも同じように歳を重ねたからかしら。かわいらしい人は、浜辺の砂のように、喜びというものをその愛らしい足元からこぼしながらわたしとすれちがうのです。ぷうんと、陽のにおいが感じられるのです。母と行った潮干狩りを思い出す、と言ったら土臭くなるかしら?いいえ、どんなに美しくなくても、わたしはそれを思い出すと同時に、その記憶が途方もない幸せの証明だと感じてならないのです。やはり歳を重ねるごとに、そういった瞬間は増えているように思います。わたしはきっとかわいらしい人に、戻るか、なるのか、わかりませんが、どちらも叶わぬのでしょう。人の呼吸に長く長く触れると、人は湿っていくものです。わたしは、もう湿ってしまいました。こぼすべき砂も泥へ変わり、木を生かす陽の光も遮られ、穏やかな貝はわたしのうちに、もういません。
 つい愚痴のようになってしまいましたね、ごめんなさい。文字はわたしの血肉、わたしの呼吸なのです。今日は書き続けても愚痴っぽくなってしまう気がするので、ここで筆を置こうと思います。次からは花の育つさまを書き添えます。枯れても、笑わないでくださいね。どうか元気で、いつでも笑みを。

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